大人も子供も関係なく、予防接種と聞くと鋭い注射針を思い出し、嫌がる人も多いのではないだろうか。園芸学科出身の私は、バナナなどを食べるだけで免疫を獲得できるようになることを大学時代からずっと期待してきた。

こうした夢のような期待に応えてくれるかもしれない研究が、健康食品でお馴染みの藻類「スピルリナ」で行われていることをご存知だろうか?

ワクチンによる予防接種

ワクチンは感染症の原因となる細菌やウイルスを弱毒化させたもの、あるいは病原性を無毒化させ抗原性だけを残した特殊な薬液である。この薬液に含まれる抗原と呼ばれる生体に免疫応答を引き起こす物質に対して体内の免疫細胞が反応して抗体を産生する。抗体は抗原と特異的に結合することで抗原を体内から排除する免疫応答を起こし、私たちの体を感染症から守る。ワクチンを事前に接種することで、免疫細胞に投与した抗原分子の特徴を一度記憶させ、実際に病原体が生体内に入ってきた時には速やかに抗体が産生されて生体を防御するため、発症が抑えられるという仕組みである。

ワクチンの接種方法は、ほとんどが皮下注射や筋肉内注射だが、ポリオウイルスに対する経口ワクチンや、結核に対するBCG(Bacillus Calmette-Guerin)のようなスタンプ式で行うものもある。1990年代からは新しい経口型ワクチンとして、食べるワクチン(edible vaccine)が注目されてきた。これは、野菜や果物などの植物に遺伝子組み換え技術を応用することにより製造したワクチンである。植物は、種類によっては安価に栽培することができるため、ワクチンの製造コストを下げることができる。また、そのままの形で投与することができるため、痛い注射をする必要もなくなる。

食べるワクチンの研究開発

2017年にアリゾナ州立大学(Arizona State University)を退官したチャールズ・アーンツゼン(Charles Arntzen)教授は、食べるワクチン研究の第一人者として知られている。アーンツゼン教授の研究にインスパイアを与えたのは、1986年にアメリカで組み換DNAによるB型肝炎ワクチンが承認されたことだった。このワクチンは遺伝子組み換え技術を利用して、B型肝炎ウィルスの抗原遺伝子を酵母に組み込み、ウイルスに特異的な抗原性を示すタンパク分子だけをつくらせる方法で製造したものである。アーツゼン教授は酵母の代わりに植物に遺伝子組み換え技術を応用することで、安価な経口型ワクチンを作ることができるのではないかと考え、複数の作物種に抗原の発現を試みようとした。

1992年、タイのバンコクを訪れたアーンツゼン教授は、泣きやまない我が子にバナナを与えてなだめる母親の姿を見て、加熱が不要で生食可能なバナナワクチンを思いついた。実用化を目指すため、当時バナナの遺伝子組み換え技術でリードしていた台湾大学園芸学科の教授のもとを訪れたと聞いている。しかし、遺伝子組み換えの果実植物を作るには最低3年間のサイクルが必要だった上に、バナナにおける抗原の発現レベルは低かった。そのため、残念ながら夢のバナナワクチンの開発は中止されたが、当時大きな話題となった。

食べる「スピルリナワクチン」の可能性

ヒト用の安全なワクチンを製造する場合、厳しい品質管理のもと、安定的に製品を供給することが第一要件である。組み換え植物を用いて食べるワクチンを製造する利点は、植物が安価に栽培できること、地産地消によって長距離の低温保存・輸送が不要であること、抽出・精製が不要であること、経口投与が可能であることなどが挙げられる。一方で、組み換えによる植物個体間の抗原発現量のばらつきや、抗原の安定性および免疫原性の変動が非常に大きいことが問題となる。何より、精製されていない場合、抗原の正確な投与量をどのように決めるのかが大きな課題となっている。

ここで登場するのが、健康食品でお馴染みの藻類「スピルリナ」である。原核単細胞生物であるスピルリナは増殖が速いため、研究に要する時間が果実食物(年単位)と比べて比較的短時間(日単位)で行えるので、遺伝子組み換え生物の作成を短時間で成功させられる可能性がある。さらに長年食用されてきた経験があるため、食べるワクチンの利点を保ちつつ遺伝子組換え植物を用いたワクチン開発におけるボトルネックを解消できるのではないだろうか?

2017年に米国ワシントン州シアトルに創立されたルーメン・バイオサイエンス社(Lumen Bioscience Inc.)は、スピルリナから医療、食品、化粧品など様々な分野で利用できるような産業付加価値の高いタンパク質分子などを工業生産する研究開発に注力している。2018年5月21日に同社は、独自のスピルリナベースのタンパク質発現プラットフォームを用いた超低コストの経口投与化型遺伝子組み換えマラリアワクチンの研究開発が、米国国立衛生研究所NIH(National Institute of Health)の助成金に採択されたことを発表した。

マラリアワクチンの実用化への課題

世界保健機関(WHO)の世界マラリアレポート2016によると、マラリアは結核、エイズと並ぶ世界三大感染症のひとつであり、2015年には全世界で2億1200万人が感染し、そのうち42万9000人が死亡している。感染者の90%がアフリカ大陸に集中しており、全死亡者数の70%は5才以下の子どもと推定されているが、有効なワクチンの開発は未だ成功してない。現時点では唯一、英製薬大手のグラクソ・スミスクラインが30年間に渡る研究の末に開発したワクチン「Mosquirix™」が臨床試験段階にある。2017年4月24日、WHOは世界初のマラリアワクチンの実用化に向け、2018年からアフリカ3カ国(ガーナ、ケニア、マラウイ)で本格的なMosquirix™の試験投与を始めると発表した。

しかし、Mosquirix™は従来型のワクチンと同様に、製造段階から使用時まで低温で保存・輸送をしなければならず、製造コストが高いという課題が残っていた。また、医師や看護師など医療従事者による注射が必要となる。それに対し、ルーメン・バイオサイエンス社が開発したスピルリナをプラットフォームとした経口投与型遺伝子組み換えワクチンは室温での保存・輸送が可能であるため、用量当たりの製造コストを大幅に削減することができる。また、注射が不要なため医療従事者の動員も不要である。そのため、医療レベルの低い貧困地域へのワクチンの拡大普及を図ることができる。

ルーメン・バイオサイエンス社のスピルリナ研究への期待

2018年1月5日ルーメン・バイオサイエンス社は、発展途上国の子供達の命を奪っている下痢性疾患に対し、スピルリナプラットフォームを用いた経口投与型抗体を開発するため、ビル&メリンダ・ゲイツ財団(Bill & Melinda Gates Foundation; B&MGF)から助成金を受けると発表した。同財団は世界中の感染症に対抗するために年間数十億ドルを費やしており、最終目標としてヒトの母乳のもつ免疫力を有した経口投与可能な治療用トニックを超低コストで開発することを掲げている。

先進国ではささいな問題に過ぎない下痢性疾患だが、UNICEFによると発展途上国では毎年約150万人の子どもたちが命を落としている。ちなみに、日本で冬期に流行るノロウイルスもその感染源の一つである。

ルーメン・バイオサイエンス社の技術により、スピルリナはサプリメントや食品利用だけでなく、それ以外の道へ進み始めている。スピルリナワクチンの開発及びルーメン・バイオサイエンス社の動きは今後注目していくべきであろう。


参考資料
1.https://www.lumenbioscience.com/malaria-grant
2.https://www.lumenbioscience.com/gates-foundation-grant-jan-2018
3.https://www.unicef.or.jp/osirase/back2009/0910_05.htm
4.http://fgfj.jcie.or.jp/topics/2016-12-16_malariareport
5.https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG25H1B_V20C17A4000000/
6.https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5049623/
7.http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0012/vacctine.html