毎年、年末年始は引きこもって時間ができるので、自分の興味の源泉は何かというところについて考える。特に昨年はModia[藻ディア]で記事を書き始めたこともあり、自分が藻類のどの辺に惹かれているのか、ということを改めて考えてみた。
私はアカデミックな研究対象として藻類に惹かれているわけではない。藻ディアで共に記事を執筆している尾張のように顕微鏡を覗いて藻類の姿形に興奮することもなければ、種を分類したり、進化の過程を知ったり、新しい代謝経路の発見にテンションが上がるタイプではない。また、星野のように藻類培養装置の設計、培養技術の開発、大規模生産システムの構築、というような生産工学的な方面に興味があるわけでもない。ならば、生産された藻類の製品化や商品設計、それらを販売するためのマーケティングがやりたいのか、と聞かれればそれも違う。
それでは、なぜ私は藻類に惹かれているのか。
光合成を起点とした藻類の持つ意志
思考を整理するにあたって最初に振り返ったのは、「藻類が持つ、太陽光から生命*を生み出す機能」に興味があるという自分の感覚だ。
*ここでは”生命=自ら増えるもの”と定義しておく。
例えば、太陽光を浴びた石は熱くなるが、石自体はその熱によって増えようとするわけではない。一方、太陽光を浴びた藻類は分裂し、自ら増えようとする。石には増える意志がないが、藻類には増える意志がある。端的に言えば、生命と非生命を分ける意志の発生こそが自分の興味の原点ともいえよう。
生命について食物連鎖的な観点から見ると、光合成が最初の反応となる。光合成によって有機物が合成され、そこに意志が宿ることで生命が誕生しているわけである。つまりは、光合成の反応を突き詰めていけば、意志が発生する瞬間が見えるかもしれない。そんな背景から、私は光合成を研究してきた経緯を持つ。ただ、残念ながら、光合成の反応を細かく調べたところで、酵素の活性を見ることはできたが、そこに意志の発生を感じることはできなかった。
一方、研究をしながらふと思ったこともあった。それは光合成というシステムで有機物が合成されたから意志が発生したのではなく、最初に意志があったから光合成が物質合成するようになったのではないか、ということだ。逆説的な話であるが、研究を進めるまでは『最初に物質があって、そこに意志が吹きこまれて生命が生まれる』と考えていた。しかし、実はそうではなくて、『最初に意志があって、そこに必要な物質が集まると生命という形をとる』という順番である気がしたのだ。
非科学的な話であることは自覚しているのだが、私にはこの考え方が妙にしっくりきたのだった。仮にそうだとした場合、最初から存在している意志というものは何か、いつどこにいるのか、という話になる。人によってはそれを気と言ったり、魂と呼んだり、マザーネイチャーとか名付けたり・・となるのかもしれないが(こうした類の話も個人的には好きであるが)、私がたどり着いた答えは「循環」であった。
生命系の循環における藻類の役割
地球上では水、炭素、窒素を始め、様々な物質がそれぞれのスケールで循環しているが、この循環する力=意志であると考えたのだ。というのも、循環は一方向に回転する力であり、その方向に従って全物質が動いている以上、循環こそが生命を支配している意志と言えるんじゃないかと思ったからだ(そもそもこのエントロピー増大則はどこから来ているのだろう・・とかなると議論がまとまらなくなるのでひとまず置いておく)。いずれにしても、大前提として常にどこにでも循環が発生している世の中で、光合成のシステムも生物も、循環することを正とし、それに最適化するように発生し、進化してきたのではないか。
この物質循環という流れの中の、我々が属する生命系の循環について考えた時に、藻類というのは循環の動力となる太陽エネルギーを取り込むポジションに位置することとなる。そう考えると、私は循環のエンジンとしての役割を持つ藻類に惹かれていたのであり、興味の本体は循環思想にあることに改めて気づいた次第である。
このような自身の興味の本体を踏まえた上で、人類が新しく手に入れた「藻類」というエンジンを使ってどんな循環を生み出していけるのか。そして、その新しい循環を作った先に人類がどんな文化を生み出していくのか。それが見たくて、知りたくてずっと藻類と関わってきているんだな、という結論に至った。
・・と新年早々、とてもパーソナルな話にお付き合い頂きありがとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
参考画像
・”Beech seedling“© 2010 The Cookiemonster / CC BY 2.0
・”Bufo boreas“© 2011 Thompsma / CC BY 3.0
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